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e615eb37 :Old Timer i1b5ibip3kS
2016-09-21 06:39
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>>7ecf9404
仏、法、僧のそれぞれが、本来、人のためなので、そのどれかを重視しても、それだけでは、人をないがしろにすることにはならない。
菜園教会が問題を抱えているのは、法が人のためではなく、僧のためになってしまっているからだ。
シッダールタはそういう場合に僧を去ることを説いている。
` もしも汝が、賢明で、協同し律儀正しい明敏な同伴者を得たならば、一切の危難にうち勝ち、こころ喜び、念いをおちつけて、
` かれとともに歩め。しかしもしも汝が、賢明で協同し行儀正しい明敏な同伴者を得ないならぱ、あたかも王が征服した
` 国を捨て去るようにして、犀の角のようにただ独り歩め。
だが、それまでに編み出された法に隠された部分があったり、人を僧に依存させる形でばかりで実践されていたりすれば、
人がある僧を去り、別の僧を選ぶのは難しい。
僧が複数存在したり、小さくて、ソロで実践できる橋が存在すれば、教会での実践を選ぶ個人の立場も強くなる。このことは、必然的に、
教会の自浄につながる。
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