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    2010-02-05 23:48
  
 
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    >>9e6e755b
    
    まず、サピアとウォーフの仮説は言語学界の主流に妥当だとは見なされていない。
    言語学界の二大潮流は生成文法と構文文法だが、いずれも個別の言語の伝達力の
    最終的限界の差に言及していない。
    
    生成文法においては、人は最初から主部、述部、目的部などを包含する心的言語
    を有しているとみなすため、個別の言語における伝達の限界や効率は思考や認知
    に影響を与えないことになる。
    
    サピアとウォーフを再び支持する見解が出るとしたら、それは構文文法陣営から
    出ることになると思うが、未だに目立った動きはない。
    
    俺自身は思考や伝達における言語間の効率の差異を度々指摘しているので、むし
    ろサピアとウォーフの側に多少寄っているが、それでも、言語が思考や認知に決
    定的な影響を与えているという節には違和感を感じる。中学時代に英語の"I"が
    日本語の"私"を意味すると習ったが、そこで""僕"や"俺"を英語でどういえばい
    いのだろうか?"という疑問は湧かなかった。"I"の意味を理解するのに、例文数
    は10個くらいしか必要ないのではないか?
    
    言語間の表現の大きな違いを、人は意外にもやすやすと乗り越える。心的言語の
    存在を完全否定するのは難しい。
    
    レオモードは、ボームのいうところによれば、名詞ではなく動詞を中心として展
    開される言語体系ということだが、それはサピアが定義を厳格化した抱合語に属
    する諸言語と基本的に変わらないと思える。
    
    抱合語と対極にあるのが中国語などの孤立語だ。孤立語はとかく細かく意味範疇
    を切り刻む。日本語は中国語から大量の語彙を輸入したため、大まかに捉えるの
    も切り刻むのもなかなか上手な言語になった。"新装開店"を今風に"リニューア
    ルオープン"などといってしまうと、刻みが大きくなって、何を新しくしたのか、
    何を開くのか、わからなくなってしまう。
    
    面白いのは、あまり意味範疇を切り刻まない抱合語のそれぞれの話者が少ない 
    ― つまり、抱合語は話者人口を切り刻んできた ― のに対し、意味範疇を徹底
    的に切り刻む孤立語はそれぞれ話者が多い。ヨーロッパ語族の中で最も話者が多
    いのも、孤立語に最も近い英語だ。
    
    ボームの見解と言語を取り巻く現実はむしろ逆だ。
    
    ボームは言語学については素人だった、といわざるを得ないだろう。
   
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