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    c16e6f0c :Anonymous
    2010-04-04 11:10
  
 
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    >>4593907d
    『自我の終焉』は、ウィルバーも統一意識レベル関連の書籍として推薦していました。
    
    この書籍名、私は逆に菜園の対極を象徴するタイトルだとずっと思ってました。
    誤解だったんですかね?
    教会菜園人としか会ったことないんで・・・。
    
    菜園人が悟りに至れないのは、自我が捨てられないからだと分析してました。
    (あくまで教会スタッフの印象ですよ。)
    基本的に、教会に勧められる自由への道というのは、
    自我をどんどん強くする道だと思うんです。
    
    クリアーやOTになれば、何でも思いが叶って、
    人や物をコントロールする能力を上げようとしたりとか・・・。
    それでスタッフはどことなく傲慢に感じる。
    
    禅やクルシュナムルティの言ってることはこれらと全く逆の道って気がするんですよね。
    彼らはとにかく自我を無くそうという観点。
    何かをコントロールしようという発想がないんです。
    要するに、彼らの悟りは、自己が脱落したってことでしょ?
    
    コントロールも何も、コントロールする主体がないって状態でしょう。
    思いが叶うと言っても、それを思う自分がないわけですから、
    他人の願いが叶うことも、自分の願いが叶うのと同じという感覚のはずです。
    本来はトンレンの技法も、こういったことに気づくのが目的だったと思いますね。
    ウィルバーが言いたかったのもこれでしょう。
    
   
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