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5d019e3c :Old Timer i1b5ibip3kS 2022-10-19 07:35
>>751c2540

1950年代は自由だった。菜園を研究する権利は幅度だけでなく、全ての菜園人た
ちにもあった。幅度はしかしこの時代の失敗例を罵るようになり、菜園が他の人々
の協力の上に成り立ったことを忘れてしまった。ノーベル賞経済学者カーネマン
によれば、失敗や損失の痛みは成功や利得の喜びの2.25倍の強さがあるらしい。

f(x) `
= x ^ 0.88 (x > 0) |
= -2.25 * (-x) ^ 0.88 (x < 0)

ある戦略で100万円儲かり、その後1万円ずつ損をするならば、勘定と感情[u]の関係
は次のようになる。

1000000 … 190546 [u]
990000 … 183096 [u]
980000 … 175645 [u]
970000 … 168195 [u]
960000 … 160744 [u]
950000 … 153294 [u]
940000 … 145843 [u]
930000 … 138393 [u]
920000 … 130942 [u]
910000 … 123492 [u]
900000 … 116042 [u]
890000 … 108591 [u]
880000 … 101141 [u]
870000 … 93690 [u]
860000 … 86240 [u]
850000 … 78789 [u]
840000 … 71339 [u]
830000 … 63888 [u]
820000 … 56438 [u]
810000 … 48988 [u]
800000 … 41537 [u]
790000 … 34087 [u]
780000 … 26636 [u]
770000 … 19186 [u]
760000 … 11735 [u]
750000 … 4285 [u]
740000 … -3166 [u]

勘定面で利益が74万円残っているが、感情面では耐えられなくなり、戦略は棄却
される。

しかし、その後、菜園は幅度の独裁下で拡大を続けた。1960年代当時、 "痩せた
組織" という大前提があった。

痩せた組織: アドミン部門人数 / テック部門員数 < 1.0

聴聞の基本は相互聴聞で、職業聴聞士は比較的少なく、しかも、大部分は教会内
で働くのではなく、開業していた。クリアーや準OTの多くはHGCではなくコース
ルーム付属の聴聞室で作られていた。

1968年に新OT IIIが登場して程なく海組織が作られ、菜園の閉塞が始まった。

海組織が指導して実現させようとしていた "規範的技術" は個人では難しいとこ
ろがあったので、個人開業が減った。菜園は個人にとって儲からないものになっ
た。

海組織からぶら下がった 地方組織 にはHCOPLに反する運営が認められ、つまる
ところ、仕事がスタッフ個人の生活を侵食することに歯止めがなくなり、白昼組
織と基盤組織の両方のスケジュールで働かされるスタッフも増え、幸福なスタッ
フ個人はほとんどいなくなった。この傾向はたぶん草の根から成立したクラスV
組織にも影響を与えているだろう。

1990年代初頭になると、地方組織から海組織への上納金の額の計算方法が変わっ
た。以前は総収入から給与以外の経費を支払った後の額から上納金を払っていた
が、上納金を先に計算する方法に変わったので、地方組織の拡大は著しく困難に
なった。月収50万円の聴聞士は今ほとんどいないだろう。
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