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    5a474ce3 :Anonymous
    2010-02-05 17:25
  
 
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    >>9c2e5628
    
    「思考や認識は言語表現の効率の限界に縛られない。」というのは本当だと思います。
    
    しかし「思考や認識」はラング(個別的な言語体系)に影響を受けるもののように
    私には思えるのですが。
    
    また、後期ハイデガーの言語表現や前衛的詩人のように、
    自国語で自らの思想や認識を語ろうとする者らが、新たな造語をいくつも創始し、
    そのラングが許容する文法にもぎりぎりのところまで無理を言わせながら何とか
    自分の洞察を語り出そうとすることがありますね。
    
    このような著述家の言わんとすることは、言語以前、ときには主客以前の事象である場合があり、これを言語によって表現しようとするとき、表現媒体である個別言語の条件付けによってそれぞれ別様に歪曲されてしまうのではないでしょうか?
    
    プロセシングにおいては、このような領域のことは、吸収されてしまうほど
    些細なことなのかも知れませんが。
   
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