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2f96f479 :Anonymous
2022-11-04 20:15
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>>3e69a585
以下にLRHの『思考の原理』を援用しながら、オリジナルのゴータマ・シッダールタの教えをサイエントロジー風に表現してみよう。
パーリ経典が説く、「生老病死」は見せかけである。つまり、生老病死はマーヤーである。マーヤーとは「非実在(≒刹那生滅)」という意味である。「誕生→成長→衰退→死」という宇宙のサイクル(※『ヴェーダ』に由来する)は、真実ではない。それは、見せかけの現象である。全ては「創造」のサイクルに他ならない。誕生も病気も死も自ら創造しているのである。実際の生命のサイクルは、「創造ー創造ー創造」である。つまり、全ては創造的な行為である。
それが見せかけであるのは、それがそうであるべきだと、私たちが合意している(させられている)からである。つまり、人間は、自分が老いていくと同意しているスピードに応じて老いていくのだ。それは、これが自然の成り行きだとみんなが合意しているからに過ぎない。実際には、人間(の肉体)は早く老いることもできるし遅く老いることもできる。それどころか、全く老いないでいることさえ選択できるのである。生老病死のサイクルは真実ではない。それは、見せかけに過ぎない。それが見せかけなのは、私たちが「そう見える」と信じているからである。
例えば、目の前に壁があるとしよう。壁がそのように見えるためには、その壁は継続的に創造される必要がある。壁が立っていることも、それを倒すことも、どちらも創造的な行為である。私たちは、壁が倒されることに抗議したり、それを好まないという理由で、壁を倒す行為を「破壊」と呼ぶ。しかし、それは、ただの「意見」に過ぎないものだ。現実を見ると、破壊などというものは存在しないことがわかる。そこにあるのは、特定の創造に対抗する創造が存在するだけなのである。
重要なことは、自分が何を創造しているか知っているという状態と、自分が何を創造しているか(あえて)知らないでいるという、二つの状態が存在するということである。言い換えれば、人は何かが依然として創造され続けていることを知らずに(知らない振りをしながら)、創造することができるということである。私たちは、車を運転する場合、無意識でたくさんの動作を行っている。これを、「自動性のパターン」と呼ぶことができる。心は、無数の自動性のパターンの集合体である。
私たちは、何かを行っているにも関わらず、多くの場合、それを行っていることを意識していない。例えば、ある人が何かを創造し始めたとしよう。それから、依然として効力のあるその思考を、自分の意識の及ばないところに置いたとする。それでもなお、その創造は、本人の意識の及ばない形で起こり続けるのである。意識して何かを創造するということが、継続的な創造における、不可欠な最初の条件である。つまり、人は意識することなく、創造を継続させることができるということだ。人が意識していようと、また意識していまいと、創造という行為はその人が「今ここで」、つまり「現時点」におけるこの瞬間に行っていることなのである。いかなる創造も、人が過去のある時点で意識的に“始めた”ものである。しかし、創造は現時点の瞬間において行われているのだ。ある創造をやめるために、「自分がかつて、それを自ら創造しているということに気付いていたということを明らかにする」ことによって、それを再び自分が知るようにするという方法がある。これによって、その創造を継続させていた“最初の”創造は止まることになる。これは、創造を意識下に置くことで、その創造を再び自分のコントロールの下に置くという方法である。間違ったやり方は、以前の創造に対抗するために、新しい創造を始めるやり方だ。その結果は、二つの対立する創造によってつくり出された混乱と混沌である。
病気の創造について、考察してみよう。ある病気の患者が、かつて自分が病気を創造し始めたことを知らずに(忘れて)、健康な肉体を創造しようとしているとする。つまり、病気の肉体という創造に「対抗」して、健康な肉体を創造しようとしているのである。その結果は、病気の肉体に対する「反創造」、すなわち「破壊」であり、その結果もたらされるものは、混沌と病気の継続だ。彼は、もともと健康な肉体を創造していた。ところが、彼のマインドは、途中で病気の肉体を「反創造」した。彼は、このプロセスを忘れている。彼の問題は、病気の肉体という反創造なのである。彼は、健康な肉体を望んでいる。ならば、彼に、病気という反創造が消えるまで、彼に病気の肉体を意識的に創造させなさい!すると、健康な肉体という、もとの創造が再び現れるだろう。このとき、唯一うまくいかないケースは、もともと健康な肉体という創造が存在していない場合だけある。しかし、どの宇宙も、常に混沌の前には秩序が存在していたのである。つまり、混沌とは失われた秩序に他ならないのである。
生老病死というサイクルを信じても、また、この理論を適用しても、人間の状態を向上させることも、知能や倫理性や霊性を高めることもできない。それどころか、あらゆる生命は、このサイクルに必死で抵抗しようとしているではないか。私たちは、このサイクルの何かが「おかしい」と感じている(知っている)のである。「アンチエイジング」という言葉の存在がその最たる例である。人々が、生老病死を「おかしい」と感じることは正気である。なぜなら、それは私たち本来の在り方ではないのだから。
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