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3e69a585 :Anonymous 2022-11-04 20:14
>>614d1c88

パーリ経典に“登場”する仏陀(ゴータマ・シッダールタ)が説いたとされる、

〈曰く、"比丘たちよ、色(Rūpa)は無我である。もし色が我であるならば、色は病気にかかることはなく、また我々は色に対して「私の色はこのようになれ、このようになってははならない 」と命じることができるはずである。" 

"しかし比丘たちよ、色は我ではないため、色は病気にかかり、また我々は色に対して「私の色はこのようになれ、このようになってははならない 」と命じることはできない。…"〉

の件[くだり]は簡単に論破できる。このパーリ経典の引用文が、一目見て、前段と後段が矛盾している詭弁の類であることは明らかである。

まず、色(≒肉体)を非我/無我であると規定するならば、色を観照し色は非我/無我であると認識する主体たる我(認識の主体たるアートマン)を仮定しなければならない。ダイナミックはダイナミックを知覚できない。言い換えれば、動いている存在(刹那生滅≒無常のコスモス/MEST)は、自らのその動きを認識できない。MESTの動きを認識できるのは、よりスタティック(↔ダイナミック)かつ精妙(↔粗大)な存在である。ゆえに、精妙なMESTであるマインドは粗大なMESTの動きを認識できる。しかし、マインド自身が無常のMESTとして刹那に揺れ動いているゆえに、完全なMESTの動き(刹那生滅/マーヤー)を認識することができない。ここに、理論的帰結としてマインド・エネルギー・肉体物体を認識/観照する無の波長たるスタティック即ちアートマン(≒セイタン)が仮定される。アートマン(≒セイタン)がマインド/バンクを消滅させ、MESTの刹那生滅を完全に認識すれば、MEST(≒リアリティー)のマーヤー(虚構性/非実在性)を看破すると同時に、全てのゲーム(自家宇宙/集合宇宙)のからくりが明らかになる。これが解脱/悟りである。

以下、前段の破折:

「色(Rūpa)は無我である。色(肉体)は我ではないので、色(肉体)は病気に掛かることはない」

→当たり前である。アートマン(我)は生まれることも滅することもない。ゆえに、老いることも病むこともない。色自身が色に対してアズ・イズネス/アルター・イズネス/イズネス/ノット・イズネスを命ずることはできない。それを行うのは、アートマン(≒セイタン)自身のポスチュレート及びコンシダレーションである。

「また我々(※アートマン)は色に対して「私の色はこのようになれ、このようになってははならない 」と命じることができるはずである。」

→“できるはず(だができない)”ではなく“できる”のだ。愚か者の経典作者よ。

以下、後段の破折:

「色は我(※アートマン)ではないため、色は病気にかかり」

→当たり前である。生老病死はMESTのコンシダレーションであって、アートマン(≒セイタン)の性質ではないのだから。

「また我々(※アートマン)は色に対して「私の色はこのようになれ、このようになってははならない 」と命じる(※ポスチュレートする)ことはできない。」

→完全な偽りのデータである。

上記の仏典の引用文は、色は非我/無我であることを論じながら、我々(アートマン/セイタン)が非我/無我であることをバンクの同一性思考で導こうとしている。このような幼稚かつ非論理的な教えをゴータマ・シッダールタが説かれるはずはない。

仏典に「如是我聞(にょぜがもん)」と書かれているのは、歴史上の聖人あるいは神々の名を冠して聖典を編纂するインドの精神文化(習わし)の表れである。宗教上の聖典(経典)には実際の著者の名を冠しないのが、インドの一般的な伝統なのである。大乗非仏説というものがあるが、それはインドの伝統に則ったパーリ経典に対するアンチテーゼ(ノット・イズネス)だったのであり、仏教経典の“創作”は大乗仏教経典群に始まったものではない。現存するパーリ経典から既に始まっていた。後に、アビダルマ仏教が煩瑣な思弁哲学の迷宮に陥ったのは、パーリ経典の曖昧(データの空白)かつ矛盾した記述(偽りのデータの混入/捏造と変えられたデータの重要性)の必然的な結果である。加えて述べれば、中道とは肯定と否定の中間などという概念ではない(形而上学的な質問をはぐらかして答えないことを正当化する「毒矢の喩え」は創作経典であるパーリ経典の論理に過ぎない)。

また、セータラインの分岐/再統合は、セイタン≒アートマン(※「魂」という用語はマインドの構造であるセータボディを含む概念なので精密科学に相応しくない)の個体性の否定にはなり得ない。LRHは、セイタンの個体性について明確に述べていた。セータ・ラインが分岐しようと再統合しようと、セイタン(≒アートマン)は個体であり、ヒンドゥー教徒が仮定したようなブラフマン(※ここでは、スタティックたる虚無の意味)に溶け込み消滅するわけではない。セイタン(≒アートマン)とセイタンの源の視点(※次元点ではない)自体はアズイズできないからである。

なお、人口の増加は、セータ・ラインの分岐を仮定せずとも、この惑星の歴史的経緯(インシデントⅡを無視しても)から肉体の数に対して“肉体を持たないが機能性や知覚力において肉体を必要とする低スケールのビーイング(セイタン)”の比重が圧倒的に多いので、肉体の所有者(簒奪者)には事欠かない。動物からホモ・サピエンスへの転身も考慮すればなおさらである。
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