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2dea823a :Anonymous
2023-02-15 03:00
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>>2ebb4f8a
マルクスとエンゲルスの唯物史観(自称・弁証法的唯物論)は欠陥が大きい。
(先史研究における)歴史学的には死語の原始共産制から高度な未来の共産主義社会で歴史が終わるというイデオロギーは、エデンの園から至福千年に至るキリスト教の歴史観と瓜二つである。そもそも、ホモ・サピエンスの祖先とされる猿の集団にも縄張り争いとボス猿の支配秩序が存在するのであるから、原始共産制ユートピアの仮定は無理がある。原始共産制というイデオロギーを前提とした歴史観は宗教的なエデンの園を唯物論的なユートピアに置き換えただけのものである。
※ヘーゲルの歴史観自体が(統一教会の文鮮明の統一原理に基づく歴史観並の)欠陥品なのだが、それを杜撰かつ強引に、唯物論および唯物史観に置き換えているのが、マルクスとエンゲルスの最も罪深い点である。
また、マルクスとエンゲルスの唯物論および唯物史観においては、人類(ホモ・サピエンス)は、自然法則と社会の発展法則なる不可侵の“真理”の範囲内での選択の自由しか持ち得ない。社会の発展法則は、人間の意図に関わらず、自然法則の重力と同様に存在する。この社会の発展法則に従うことで、人間は自由を得ることができるのだ、ということだ。人間の思考や意図、すなわちコンシダレーションはMEST(コスモス)に従属し、社会のあらゆる上部構造(思想・文化・社会制度)は下部構造である社会の生産様式に従属する。それが、なぜ真理なのかは訊くだけ野暮である。なぜなら、彼らはその絶対真理を発見したのだと自称しているのだから。もちろん、これは完全に倒錯した見方である。
なお、「道(Tao)」に従うことで得られる生存と自由と、唯物論的な自然や社会のMESTの“真理”に従うことで得られる自由なるものは別物である。道は生命にセータおよびダイナミックの力を与え、蘇生と生存をもたらす。そして、道は究極へ至れば、時空や因果律といったMESTの縛りを超越してしまう。一方で、マルクスとエンゲルスの唯物史観の説く人間の自由とは、我々人間の精神作用でさえも肉体の頭脳の産物であり、物質の隆起の結果、肉体の物理・化学的な作用(反応)で神経系を通じて、ランダムに「物質が思考した」結果に過ぎないのである。そして、我々の思考も自然法則と社会の発展法則を超えることはないのである。なぜなら、唯物論においては、宇宙と社会の歴史は必然だからである。つまり、宗教的な運命論≒予定説の世界と同じである。
そもそも、社会の発展法則なるものはまやかしである。社会に一定のメカニズムは存在するが、それは過去の合意を通じて人為的に社会制度に組み込まれたルールに過ぎない。それは、変更不可能な絶対不可侵の法則≒真理などではないのである。我々人間は、条件付けされた機械(仕掛け)などではないのだから。
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