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1cdb7116 :Old Timer i1b5ibip3kS
2022-10-20 00:50
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>>e782c174
1950年代の幅度の方針は、教会内では技術を変えず、教会外では技術を変えるこ
とを推奨するというものだった。教会が設立された1954年の菜園人の規律にもそ
う書いてある。言い換えれば、哲学としての菜園と、宗教としての菜園があった。
` 15. To stress the freedom to use Scientology as a philosophy in all
` its applications and variations in the humanities.
哲学としての菜園では、"variations"が許容されている。
` 16. To insist upon standard and unvaried Scientology as an applied
` activity in ethics, processing and administration in Scientology
` organizations.
しかし、幅度は教会について警戒していた。1955年のASMC-15でこんなことを言
っている。
` … And then someday – me gone, other guys gone – all of a sudden there
` sits this thing, this organization. And somebody has to rise up and
` say, “Auditors of the world, unite; overthrow this monster!” And
` everybody would see it go down very plainly, you see. Down it’d go.
世界中の聴聞士が団結して教会を倒す必要性が生じるかもしれないということだ。
大きな転換は1965年のKSW1から始まったが、ここでも幅度は集団で菜園を発展さ
せることができるとかつては信じていたことが吐露されている。
` I once had the idea that a group could evolve truth. A third of a
` century has thoroughly disabused me of that idea.
1965年に幅度は規範的技術に従うように強く求めるようになった。
ところが、1970年代に入ると、幅度は再び教会を危険視するようになり、 "Free
Zone" 構想を始めた。幅度家の身辺警護をやっていた摩天の証言と、後の驢馬船
長の主張は一致する。
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