-
fe2fd7f7 :Anonymous
2019-03-28 00:00
-
海外の掲示板で外国人(主に欧米)から英語を教わっていたんだけど、彼等とやり取りをして解った事が二つある。
1.謝罪の概念が日本人と違う
2.笑いのツボが日本人と違う
1はよく言われるけど、外国人は自分の非を基本的に認めない。ある日本人が外国人の日本語の間違いを指摘した時、「自分の日本語は間違っていない、あなたの日本語の認識がおかしい」とネイティブスピーカーである日本人に対してコメントを返していた。彼の言い分では文法的に間違いではなく、実際にこの用法がネットで使われていると検索結果のスクリーンショットを添付して論説していた。実際には不自然な助詞の使い方をしていて、日本人が修正した後の文章の方が検索結果の数値が多いのだけど、面倒だったのかその後彼の日本語を訂正する日本人は現れなかった。
また別の例では、自分が英語について質問し複数の国の人から回答を受けていたのだが、その際に英語のネイティブスピーカーであるアメリカ人に対して「あなたの回答は間違っている」と英語を第二言語とする外国人が返信していた。
どうも彼等にはネイティブスピーカー云々は関係なく、自分が正しいと思えば相手の立場や自分の力量に関係なく指摘する素質を持っていて、自分が納得しない限り基本的に主張を変更しない。
これは日本人の素質と大きく違うと感じる。日本人がネイティブスピーカーから英語を教わっている場合、例え相手の訂正が間違いだと感じても相手の心証に配慮して「自分の文章は正しい、あなたの訂正は間違っている」とは言わないのではないか。すんなりと訂正を受け入れた後に自分で調べるか、遠回しに「こういう例もあるみたいですが、どちらが正しいのでしょう」と、教育者の誤認識を論題としない。
個人的にこの感覚は日本語にも表現として表れているように思う。英語で一人称は"I"、二人称は"you"だが、日本語ではそれらを表現する言葉がたくさんある。自分と相手を表現する言葉が多いという事は、自分の心証や相手の心証を考慮する日本人の性質が日本語に表れていると言えるのではなかろうか。
2について、英語でジョークを作っていて何となく外国人の笑いのツボがわかったのだけど、外国人はタブーを面白いと感じるらしい、例えば人間の生死、苦しみなどを笑いの要素と認識している。一見、価値観が冷血のように感じられるが、そうではなく外国人は"Hypothesis(仮説)"の概念を持っているのではないかと考えるようになった。日本人はこの概念が弱いからジョークをそのまま受け取って面白くないという評価に至ってしまうのではないか。
この概念は英語に冠詞となって表れているように思う。例えば"pen"という単語が文章において使われる場合、"I have a pen"、"I have the pen"というように冠詞がつき、それぞれ異なる意味を持つが、日本語の場合『私はペンを持っている』というように、ペンの情報について関心を払っていない。新しいものか、既知のものか、数量について言及せずとも日本語においては良しとされる。言い換えると、実際に使われる"pen"と概念としての"pen"という単語の違いが無い、この事は日本人は仮説を基に論理展開する事が苦手である事を示しているように思う。
例を挙げる。『原子力発電の利用において、放射能災害が起きた場合どう対処するのか』と主張すると、『そのような討論は無意味だ。何故なら放射能災害が起きないように設計されているから』とか、『水を差すような事をするな』と日本人は感じるのではないか。言霊という表現があるように、仮定の論理と実際に起こる論理とを区別していないから、このような討論が許されず、問題提起をした人間に怒りの矛先が向かうようになっているのではないか。このような感覚であれば人の不幸や生き死にをネタにするようなジョークを作ることも無いし、面白いとは感じないだろう。
Powered by shinGETsu.