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f7126a50 :Anonymous 2020-02-14 23:28
>>c9822c90

「意識することを意識している個体」としてのセイタンの個別性を、個性という言葉で混同させてはいませんか?

スケールの頂点において、セイタン(アートマン)としての自己の個別性は失われません。セイタンは個体の存在性として不滅です。ここまでは、よろしいでしょうか?

さて、個体としてのセイタンがスケールの頂点に至り、マインドおよびファクシミリ(記憶)を捨て去ったとしましょう。

しかし、セイタンにはノーイングネスがありますから、必要と欲求に応じて記憶を再所有し、かつて身に付けた個性あるいはアイデンティティーをデュプリケート(再現)する能力があります。

これでも、マインドおよびファクシミリ(記憶)を消去したら、セイタンとしての彼自身の存在性=個性が消滅すると言えるでしょうか?

ただし、サイエントロジーは、マインドすべてをアズ・イズするための体系ではなく、ゲームの(楽しさの)障害となる反応心のみを消去するための方法論であるため、オールド・タイマーさんのおっしゃるようにゲームを全てアズ・イズすることは想定されていないわけです。

つまり、生存(スケールの上位)に向かうベクトルを正気と定義し、反生存(スケールの下位)に向かうベクトルを逸脱と定義していますね。

生存・ゲーム・個性自体を逸脱ととらえるなら、サイエントロジーよりも仏教のスタンスに近くなります。

オールド・タイマーさんは、サイエントロジーの観点から生存・ゲーム・個性を肯定しながらも、これら自体を既に逸脱と捉える仏教的な観点にた立っているようにお見受けします。

この点は、どのように考えておられるのでしょうか?
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