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    b7ea0277 :Old Timer i1b5ibip3kS
    2016-04-20 10:30
  
 
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    >>dffa5aef
    
    時間軸上に自らを意識できる存在はすべてなにかから生まれたのだよ。「時間は
    見せかけ」というのは菜園理論の基本の一つだ。
    
    自由領域では始源を無限の可能性を持つ虚無だと考える人が多い。ああ、菜園は
    仏教と同じく唯識論的な体系だし。
    
    虚無が最初に作り出したのは空間であり、空間の生成と同時に最初の魂の総体が
    いくつも生まれた。そして、時間が始まった。しかし、虚無そのものは数も時間
    も超越しているから、そこからいくつの魂が分離したとしても、虚無は増えも減
    りもしない。
    
    虚無は時間を超越しているから、時間の軌跡をさかのぼっても虚無を見つけるこ
    とはできない。
    
    虚無は時間を超越している。このことは、我々がプロセシングを通じてケースの
    状態を改善しても、我々がなお個別の存在であり続けている間、虚無にいささか
    も近づくことはないことをも意味する。
    
    虚無はすべての個性の総和であるから、我々の生命の営みに全く干渉しない。虚
    無は有って有る。当然だが、虚無は魂の相対やそれより小さい魂の間の交流や意
    思疎通を仲介したりもしない。
    
    魂は虚無から分離したと考えられるが、分離とは空間に依存する概念であり、空
    間が見せかけである以上分離も見せかけだ。魂はその見せかけをかたくなに信じ
    ている間においてのみ他とは異なる魂として存続する。魂が見せかけを超越する
    たびに、別の魂との再統合が起こり、魂の総体という状態に戻っていく。そこか
    らさらに最後の見せかけを超越すると、時間を超越し、魂の総体も消える。
    
    誰かが虚無に還ると、それは時間を超越するのだから、それ以外のあらゆる存在
    にとって、その誰かは最初からいなかったことになる。究極の悟りは究極の死で
    もある。だから、幅度はあちこちで究極の悟りを避けるべきだと説いた。
   
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