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    abd2b54e :Old Timer i1b5ibip3kS
    2016-05-17 21:20
  
 
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    >>ddcc1910
    
    時期が悪かった。
    
    1919年に「植民地問題の解決」が、1922年に「民族自決の原則」が国際法の一部
    分になった。
    
    イギリスにはかつて「帝国臣民の責務」という概念があって、有能な人がイギリ
    スのために植民地で働き、そこで生涯を終えることも当然だとする雰囲気があっ
    たけれど、20世紀に入ると、近代的自我の目覚めなどによって、帝国臣民の責務
    は時代遅れになり、植民地の統治が難しくなっていった。でも、自分だけが植民
    地を手放すのは危険だったから、列強は歩調を合わせて、独立の機運が十分高ま
    った植民地の独立を認めることにしたんだよ。この時、列強には日本も含まれて
    いて、会議の内容に合意した。だから、日本も植民地を新しく作ってはいけなか
    った。
    
    世界進出が遅れた日本のために、アメリカは十分な配慮を見せた。アメリカがヨ
    ーロッパ勢を説き伏せたことで、太平洋周辺に日本が持っていた植民地は民族自
    決の適用外になった。ところが、日本は満州国を作ってしまい、アメリカの面子
    はどうしようもなく潰れてしまった。これこそ、日本が一方的に悪く言われる理
    由だ。
    
    日本にも何か言い分があったのかもしれないが、当時の俺はイギリス人で、ヨー
    ロッパやアメリカから見た世界の記憶しかない。でも、その頃の俺の聴聞士みた
    いに、親日的であり続けた人もいる。彼女は日本に転生した。そして、俺も。
   
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