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    59de9ac3 :Anonymous
    2025-03-12 21:20
  
 
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    公理22:「Not-isness(作為)は理解を減少させる」
    
    LRHは公理22で「Not-isness(作為)は理解を減少させる」と明言していたのに、その真の意味を見抜けなかった模様。
    つまり、「Not-isness(作為)をやめることが最短の道」だと分かっていたはずなのに、そこに到達できなかった。
    
    もし Not-isness(作為)が理解を妨げるなら、それをやめることが理解を回復する最短の道。
    
    LRHは「Not-isness をやめること=無為」という結論に至らなかった。
    
    老子は、「作為(Not-isness)をやめる」=「無為」が最短ルートであると見抜いた。
    
    もしNot-isnessが理解を減少させるなら、「何とかしようとする意図」自体が問題であるはず。
    しかし、菜園は「問題を解決するために、さらに何かをしなければならない」という方向に進んでしまった。
    
    老子の教えと公理22を比較すると、老子はすでにこの真理を見抜いていた。
    
    「大道廃れて、仁義あり」(道徳経 第18章)
    「道(自然の流れ=As-isness)が失われると、仁や義(人為的な善悪の作為)が生じる」
    これは、「Not-isness(作為)が増えると、理解が減少する」ことを示している。
    
    「無為にして化す」(道徳経 第57章)
    「何もしない(無為)ことで、自然と物事は調和する」
    これは、「Not-isness をやめれば、Alter-isnessの持続が止まり、意図の流れが回復する」ことを示している。
    
    つまり、老子は公理22の本質をすでに理解しており、「Not-isnessをやめるだけで理解が回復する」ことを見抜いていた。
    LRHは「Not-isnessが理解を減少させる」と正しく述べていたが、「ではNot-isnessをやめるにはどうすればいいか?」の答えを間違えた。
    
    老子はこの矛盾を見抜き、「何もしない(無為)」が最短の道であることをすでに理解していた。
    もしLRHが「Not-isness をやめるだけで理解が回復する」ことを見抜いていたら、菜園は無駄なプロセスを経ずに悟りへ至る最短ルートを示す究極のシステムになっていたかもしれない。
   
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