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    53684608 :Anonymous
    2010-03-31 14:10
  
 
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    >そこで、今度は広範な実践での効果も検討することになる。トンレンを生んだチ
    >ベット仏教の歴史は残酷物語に満ちている。トンレンの実践があったにもかかわ
    >らず、そのような惨状が生じたのであれば、トンレンの効果は意図とは逆に出た
    >ことになる。
    
    では、実践されていたのがトンレンではなく、慈悲の瞑想だったら、チベット仏教史は
    平和に満ち満ちていたのでしょうか?
    
    私は大差なかったように思うのですが・・・。
    そもそも、慈悲の瞑想とトンレンの違いというのは、
    トンレンには他者の苦しみ(のイメージ)を吸い込むという部分がプラスされている
    というところですよね?
    
    この違いだけで、慈悲の瞑想はすばらしい行法で、トンレンのほうは効果に疑問があり、
    意図と逆の結果が出たと結論付けるのはどうかと・・・。
    
    「他者の苦しみを自分の苦しみとする」というのは、あえて効果というものを挙げるなら、
    本来個人というものは存在しない、ということに気づくことだと思います。
    「大きな自己」にとっては自分も他者もない。
    他人の幸せは自分の幸せで、他人の苦しみは自分の苦しみ。
    少なくともこういった感覚を持つようにはなると思います。
    
    ですから、チベット仏教史を見ただけで、効果に疑問を持つというのは少し勿体無い気がしますね。
    菜園スタッフを見て、オーディティングの効果は疑問があると言うようなものでは?
    本当に効果があったら、あんな組織にはなってないはずだ、教会の歴史を見ればわかる、
    と言うようなものかと。
    
   
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