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    2eae5ee7 :Old Timer i1b5ibip3kS
    2016-09-02 07:43
  
 
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    >>d88cae20
    
    イエスは、例えば、衣に触れた女の病が治ったときに、「あなたの信仰があなたを癒したのです」と言い、
    この奇跡を神によるものとはしなかった。これも極めて革命的なことでだった。あの預言者モーセすら、
    奇跡を神の力によるものと公言しなかったという咎で、追放されてしまったというのに。
    
    他にも、ペテロが湖の上を歩く場面がある。最初は歩けたが、恐ろしくなり、そのことでペテロは沈んでしまいそうになる。すると、
    イエスは、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と問う。奇跡が神やイエスの力によるものであれば、
    ペテロがどう思うのかとは関係がないはずだ。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」という言葉は、
    奇跡がペテロ自身の力によるものであることを認めるものなのだ。
    
    だから、イエスは「神への信仰」という表現をほとんど使っていない。「信仰」が語られるとき、むしろ、「神」はほとんど語られない。
    イエスは要するに人にOT能力が潜在的に備わっていることを示している。
    
    他にも、「もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。
    あなたがたにできないことは何もない」という発言がある。これは衝撃的だ。彼は人が「できないことは何もない」存在つまり
    菜園流にいえば潜在的にOTであることを認めている。
    
    新約はもともとギリシャ語で書かれた。「faith」「信仰」は「πίστη」を訳したものだが、
    当時のギリシャ語でその言葉は「信頼されること」を意味していた。「崇拝」とは全く違う。
    旧約の申命記には「faithful God」(信仰に満ちた神)という表現があり、「信仰」はもともと神が持つ力の根源を意味していた。
    
    さて、海の上を歩いたペテロだが、その後、ある方向ではイエス以上の奇跡をなす姿が新約で描写されている。
    パウロも奇跡をなすのだが、それは神の力の媒体となったとされている。一方、ペテロの奇跡はペテロ自身の力によってなされている。
    ペテロは全く別格として扱われている。
   
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