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2099204d :Anonymous
2022-10-23 13:04
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コリン・ウィルソンの説く「7つの意識レベル」
レベル1:無意識状態
レベル2:ぼんやりした意識状態
レベル3:単調な意識状態
レベル4:日常の意識状態
レベル5:至高体験レベル
レベル6:魔術的レベル
レベル7:X機能の発現
コリン・ウィルソンの定義では、ぐっすり眠っている時の無意識状態を、意識そのものが存在しないレベル0とする。次に、眠っているが夢を見ている時がレベル1だ。レベル2は、一応目覚めてはいるが何も考えていない状態で、疲れ果ててぐったりしているような状況がこれに当たる。
レベル3は、意識はあるが全く不活発な状態。与えられたことをただやる(こなす)だけで、同時にひとつのことしかできない。この状態にある人は、「人生には何の意味もない、ただ食べて働いて寝ることの虚しい繰り返しに過ぎない」などと思い込むことになりやすい。
レベル4は、我々の日常的な意識の状態(成人のノーマル)である。それなりに活動しており、問題に対処することもできる。だが、「基本的に人生は富や名声を獲得するための過酷な戦いの連続であり、最終的には死という敗北で終わるもの」だと諦めている。徳川家康のいう「人の一生は重き荷を負うて遠き道を征くが如し」がこれに当たる。だから、ちょっとしたことですぐにレベル3に戻り、生きることが嫌になってしまう。
逆に、そうやって苦闘を重ねていくうちに、「ふとその苦闘そのものの楽しさに気付き、そこに人生の意義(生き甲斐)を見出す」ことがある。そうなれば、次のレベル5はもう目の前である。
レベル5は、辛い仕事から開放され、まとまった休暇を取った初日の朝のような感覚だ。「わけもなくワクワクし、人生がバラ色に感じられる」。コリン・ウィルソンは、アブラハム・マズローの「至高体験」をこのレベル5に分類している。一過性の至高体験は、子供にとっては特別なものではない。何かの遊びに熱中している子供が、その遊びそのものになりきって、周囲で起こっていることに全く気付かないといった状態がそれである。しかし、休暇が終わりに近付くと、またあの退屈な仕事の日々に逆戻りかと思って陰鬱になる。つまり、レベル4やレベル3に戻ってしまうのである。ほとんどの人は、レベル3からレベル5の間を上がったり下がったりしている。
多くの古今東西のアウトサイダーたちは、一時の至福の体験を得ながら再び平凡な日常に引き戻されてしまう。そして、その至福をもう一度取り戻そうとして他人や社会を忌避し、最終的には破滅的(反生存的)な人生へと転落してしまう。多くのアウトサイダーは、最終的には自殺もしくは精神異常で終わる。コリン・ウィルソンも、「圧倒的な歓喜の瞬間に全知の洞察力が顕れて、人生に対する楽観と肯定の情で心が満たされる」という至高体験をした。だが、こうした一過性の「自己実現」は、それが過ぎ去ってしまうと、退屈で残酷な現実との間に深刻な齟齬を来すことになる。これは、所有性、或いは環境(つまりMEST)のコントロール能力が認識のレベルに追いついていないからである。LRHは、これを「柱に登る」体験と呼んでいた。LRHは、ヒンドゥー教を初めとする東洋の神秘主義の失敗は、エネルギー及びMESTに対する無知であったと述べている。谷底に落ちずに、このジレンマを乗り越えた人物の代表者は、ゴータマ・シッダールタと老子であろう。
レベル6は魔術的レベルの意識状態である。心から熱愛する人と初めて結ばれた夜のような感覚。「人生は祝福と驚異に満ちていると実感できる。心を悩ませていたあらゆる問題は全く取るに足らないものと感じられ、なぜあれほど悩んでいたのか、もはや思い出せなくなっている。どんな逆境も、コンピュータ・ゲームの難所のように楽しみながら取り組むことができる」。愛と勇気さえあれば何でもできるという気持ちになる。コリン・ウィルソンによれば、このレベル6は、「ゆったりとした至高体験が絶えず持続している状態」である。
コリン・ウィルソンは、「子供の頃は天国が存在した。なぜなら、習慣という(心の)機械がまだ作動していないからだ。ゆえに、子供は喜びをより喜ばしく、恐れをより恐ろしく感じる」と書いている。私たちは、大人になるにしたがって、習慣と繰り返しのワンパターンの世界に安住してしまい、新鮮さや美しいものを美しいと感じる感性(美的感覚)や、新しい物事に挑戦する冒険やゲームの精神を喪失してしまう。無気力で物分りの良くなった大人は、未来ある子供たちにとって目指すべきお手本とは言えないだろう。
「(人生における至福とは)マッターホルンに登ってひざの皮をすりむいてしまうことであり、子供が初めて「パパ」と言うのを聞くことであり、上海の繁華街でのどんちゃん騒ぎであり、玄関口で恋人が合図する口笛です。」(LRH:DMSM)
「宇宙はどれもひとつのゲームです。もし、人間(ヒューマンビーイング)に遊びの精神が無ければ、どのような宇宙も存在することはありませんでした。人間が持ち得る最も価値ある感情とは、遊びの精神です。それは途方もない感覚です。地球上およびその他の政治的な同盟における文明の間でも遊びの精神はほとんど失われています。それは、小さな子供たちに見受けられますが、そこでさえあくせくした状態にあることがわかります。子供は少しでも成長すると遊びにおけるエクスタシーはほとんど無くなります。人は年を取るにつれ、生きることの楽しみをはかないものだと信じるようになります。そうなると、人生に深刻になって新しい人や出来事に出会って楽しむことを避けるようになります。なぜなら、そんな楽しみははかなく消えるもので無益だと信じるようになるからです。子供時代における最も鮮烈で、興味を感じ、高揚した瞬間も遊びの精神とは比べものになりません。子供が感じる最もうきうきするような、エキサイティングな遊びの瞬間も、真の遊びの精神における俊敏で生き生きとした感覚の前には色褪せてしまいます。セイタンは、遊びの精神を失うと仕事の精神に基づいて活動するようになります。これは、精神の堕落に他なりません。人間がゲームの精神を完全に失う時、人は死にます。」(LRH)
レベル5とレベル6が凡夫と(能力的な観点における)聖人の境界である。レベル5からレベル6へと跳躍するためのお手軽な方法として、古今東西の神秘主義の実践において用いられてきた道具(手段)が幻覚剤の服用である。だが、これがいかに危険で愚かな道であるかは、今さら言うまでもないだろう。既に述べたように、幻覚剤を使用する者は例外なく、最終的に廃人となり、谷底に落ち身を滅ぼす。単に、アウトエシックスなだけではない。薬物の作用が消えた後、その甘美なビジョンと過酷な現実との落差に耐えられなくなり、破滅へと至るのである。
そして、頂上のレベル7が、コリン・ウィルソンのいう「X機能(未知の機能)」が十全に発現した状態だ。コリン・ウィルソンは自身の大著『THE OCCULT(オカルト)』において、「X機能」という概念を初めて提唱した。テレパシーや霊能力といった、いわゆる「超能力」もX機能の発現の一分[いちぶん]ではあるが、このX機能を認識しコントロールすることこそ、人生における根本命題であるとコリン・ウィルソンはいう。レベル7のX機能の発現は、持続的な至高体験からさらに一歩進んで、時空を支配したような超越的な感覚である。これまでの人生のいかなる瞬間をも、今まさに眼前に展開しているかのように生々しく追体験することができる。膨大な知識を一瞬にして認識したり、歴史的な過去や(可能性としての)未来に居合わせることもできる。これは、肉体のみならず、また、この集合宇宙(スペースオペラ宇宙)のみならず、時空からの完全な外在化、即ち完全なノーイングネスの獲得(回復)である。まさに、「鳥の目」をもって、時空の全てを見渡すことができるのだ。科学者はとかく目先のことにのみ執著し、常に何かに頭を悩ませている。コリン・ウィルソンは、これを「虫の目」に喩える。天の高みから下界を見おろす鳥の目が象徴するのは、全体を瞬間的に把握する、あるいは問いから答えへとダイレクトに跳躍する完全なノーイングネス(全知の洞察力)である。この状態を永続することができるなら、もはや時間は根源的な意味において存在しなくなるとコリン・ウィルソンはいう。つまり、人間は生きながらにして神となるのだ。
レベル5とレベル6の間が、サイエントロジーのブリッジでいうクリアーの状態(トーン4.0)である。レベル7は完全なOTに他ならない。なお、持ち前の「直観像」による博覧強記を駆使して膨大な著作を世に遺したコリン・ウィルソン自身は、容易にレベル5に達し、これを保持できるようになっていたという。コリン・ウィルソンは単なるオカルティストとも科学妄信主義者とも異なる楽観主義者である。その楽観は人間存在への限りない信頼に根差していた。コリン・ウィルソンは、サイエントロジーの存在を知らなかったか、眼中に無かったものと思われる。彼が、サイエントロジー(のブリッジ)を分析したならば、果たして、どのような結論を下したのであろうか?
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